狩野芳崖と四天王

マンガか劇画みたいだな、と思った。有名な狩野芳崖の「悲母観音」や「仁王捉鬼図」を見た感想である。日本画に西洋の写実や明暗法を取り入れ、「近代日本画の父」と呼ばれる芳崖。よく見ると細かな描写や質感はすごいのだが、パッと見た印象はマンガのようだった。

六本木一丁目の泉屋博古館分館で28日まで開かれていた「狩野芳崖と四天王」を見た。狩野芳崖は、室町から江戸まで400年にわたって日本画壇の頂点にあった狩野派の画家だが、明治維新によってその地位を失ってしまう。日本画が衰退してしまうのを憂えたフェノロサと岡倉天心は、日本画に西洋絵画の技法を取り入れ、新たな日本画を作りだそうとする。その担い手として選んだのが芳崖である。

展覧会は、芳崖と「四天王」と呼ばれた弟子たち、芳崖とともに新たな日本画に取り組んだ橋本雅邦ら、そして雅邦の教えを受けた「朦朧派」と呼ばれた画家たちの作品を展示している。

目玉は芳崖の代表作「悲母観音」「不動明王」「仁王捉鬼図」の3幅がそろっていることだ。マンガのような新しさは、日本画の伝統的な技法と、西洋の写実が融合した結果だろう。「仁王捉鬼図」など、背景にシャンデリアが描き込まれている。奇妙な絵なのである。とても面白かった。

岡倉秋水の「不動明王」など、永井豪の絵のように見える。当時はどんなに斬新に見えただろうかと思う。迫力があって、新たな日本画を作り出そうとする勢いのようなものを感じた。

東寺と鳥せい

日帰りだが、京都へ出張した。早めに新幹線に乗って、京都駅から歩いて東寺へ行った。

京都へ出張するたびに、東寺を訪れる。東寺には五重塔と講堂、金堂があって、いずれも国宝だ。五重塔はふだんは中に入ることができないが、講堂と金堂を見るだけでも十分である。講堂には二十一体の仏像が安置された立体曼荼羅がある。ぎっしりと仏像が並ぶ様子は圧巻で、まさに天界が地上に再現されたように思う。金堂には巨大な薬師如来坐像と、その両脇に日光・月光菩薩が安置されている。いつ行っても、不思議と人が少ない。時には、自分一人(正確には売店のようなところにお寺の人がいるので一人ではないが)になることもある。

この日も平日なので人は少なく、外国人がほとんどだった。美術館では鑑賞の対象である仏像が、ここでは信仰の対象である。私自身にはあまり信仰心はないが、それでも仏像を見るというより、「ほとけさまに会う」という感覚になる。金堂、講堂には木の壁に少し出っ張った部分があり、椅子として使っていいのかどうか分からないが、みんなここに座ってじっくりと仏と対面している。私も金堂でそこに座って薬師如来坐像を見ているうちに、他に誰もいなくなってしまった。静寂の中で、私が仏を見ているというより、仏にじっと見つめられているような気持ちになった。つい、心の内を話してしまう。心の中で仏に話していると、ふだん、自分の心の内にはあるはずがないと思っていた言葉をそこに見つけて、ギョッとする。

仕事が終わると、京都タワーの展望室3階スカイラウンジ空-KUU-に行く。ここも京都で必ず足を運ぶ場所のひとつだ。展望室の最上階まで上らなくても、ここで酒を飲みながら京都市内を見渡せる。ブルックリンラガーを飲み、京都タワーサンドに移動。京都タワーの中で、飲食店が並ぶフードコートのような場所だ。お店で買った食べ物や酒を、フロアで共通のテーブルで飲食できる。伏見の神聖酒造がやっている焼き鳥屋、鳥せいで、焼き鳥セットたれ(正肉、葱間、つくね)、ももみ唐揚げを注文し、神聖酒造の蔵出し「原酒」を2杯飲む。原酒は優しい甘みで、後口もスーッときれる感じ。甘いけれどすっきり、淡麗だ。

ゆっくりと酒を飲むうちに、帰りの新幹線の時間が迫ってくる。だが、もうちょっと何か食べたかった。慌てて京都駅・拉麺小路の「麺屋いろは」で、富山ブラック味玉入りを食べた。これはあまり美味しくなかった。麺がまるで札幌ラーメンの麺のように黄色く縮れているのだが、食感がぼそぼそしていてよくない。スープももうちょっと複雑さがほしいところだった。

開館40周年ひろしま美術館展2018

広島に、こんなにあったのかと驚いた。ひろしま美術館が所蔵するアート作品を一堂に展示した「開館40周年まるごとひろしま美術館展2018」を見た時の感想である。広島と愛媛を旅行した際に訪れた。展覧会はすでに終わってしまったが、西洋絵画、日本洋画、日本画がたっぷりと鑑賞できた。

ドラクロワ、ミレー、コロー、クールベ、マネ、モネ、ルノワール、ルソー、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、ムンク、マティス、ピカソ、ユトリロなど西洋近代絵画、横山大観、上村松園、福田平八郎、平山郁夫らの日本画、青木繁、藤島武二、坂本繁二郎、岸田劉生、熊谷守一らの日本近代洋画。全部で200枚。とても見切れない。その量に圧倒された。

それを上野の美術館のように並んだり、人の頭越しだったりではなく、ゆっくりと見ることができる。地方の美術館の醍醐味である。土曜日だったので、それなりに人は入っていたのだろうが、他人を邪魔に感じることが全くなかった。平日なら、どんなにすいているだろうと思った。

上野は話題の美術展が一年中、開かれているが、人が多すぎてなかなかじっくり見ることができない。フェルメール展も見たいが、日時指定入場制で、それにもかかわらず入館に1時間ほど並ばされると聞いて、どうも腰が重くなってしまう。

ひろしま美術館展で残念なのは、旅先なので時間がなかったことだ。2時間ほどかけたが、とてもじっくり見たという気はしなかった。ただ、原爆ドームや平和祈念資料館も見たいし、昼食も食べたいとなると、あまりここで時間を費やしていられない。広島に住んでいたら、通いたいくらいであった。

もっとも、上野の国立西洋美術館の常設展も素晴らしく、しかも金曜、土曜の午後5時以降は無料である。企画展はやたらと混んでいるのに、常設展はいつもすいている(時々、外国人で混んでいる)。金曜の夕方になると行きたいと思うのだが、何かしら用事が出来て、なかなか行くことができない。

三井記念美術館「仏像の姿(かたち)」

三井記念美術館で「仏像の姿(かたち)~微笑む・飾る・踊る~」を見た。

1917年、マルセル・デュシャンは便器に「泉」というタイトルを付けて展覧会に出品した。そのとたん、ただの既製品の便器は「20世紀を代表する前衛芸術」となった。美術館に展示されれば、すべては美術品となる。信仰の対象だったはずの仏像も、展覧会では美術品や文化財として鑑賞されてしまう。今回の展覧会は、タイトルで「姿」という漢字を、わざわざ「かたち」と読ませている。仏像を文化財として見るフェーズを変えて、「フィギュア」として楽しもうというのが趣旨なのだろう。

フィギュアとして見た仏像は、笑っていたり怒っていたり、踊っていたり片足立ちだったり、表情も身体の動きも様々で、見ていてとても楽しい。薬師如来立像のすっくとした立ち姿はかっこいいし、不動明王の憤怒の表情は怖い。腰を少しひねって微妙なカーヴをつけて立つ仏たちは、そのスタイルが実に優雅だ。古代ギリシャ・ローマやルネサンスのコントラポストもかっこいいが、このS字カーヴも負けていない。身に付けた装飾品なども、とてもセンスがいい。

最後のコーナーでは、東京芸術大学保存修復彫刻研究室による模刻作品や修復作品が展示されていて、これも面白かった。昔の仏像を、当時の色で再現している。興福寺の天燈鬼・龍燈鬼立像の復元など、鮮やかなカラーがとてもフィギュアっぽい。現在の天燈鬼・龍燈鬼は色が薄くなって風格が出ているが、ギンギンの原色を塗られた鬼たちは、ユーモラスでかわいい雰囲気だ。

バロックを代表するレンブラントの名作「夜警」が昼間の風景だったというのは有名な話だ。表面に塗ったニスが黒ずんで夜だと勘違いされていたのである。仏像たちの風格や品格も、実は時を経て劣化することによって生まれたもので、造られた当時は今のフィギュアに近い感覚で見られていたのかもしれない。

ミケランジェロと理想の身体

国立西洋美術館で開かれている「ミケランジェロと理想の身体」展に行った。展覧会は、「子どもと青年の美」「ミケランジェロと男性美の理想」「伝説上のミケランジェロ」の3部構成。ほとんど予備知識がなく、ただミケランジェロという名前にのみ惹かれて入ったのだが、ミケランジェロの作品をたくさん見られるんだろうなとは思っていた。ところが、70点の展示のうち、ミケランジェロの作品は2点しかなかった。しかも、そのうち1点は未完成作で、もう1点はスペイン内乱で破壊され、本来の40%しかない断片を復元したものだった。その他は、古代ギリシャ・ローマ時代とルネサンス期の彫刻や壁画、絵画、素描、工芸など。そして、ミケランジェロを描いた絵画や胸像などだった。

しかし、ミケランジェロの大理石彫刻は世界に40点ほどしかなく、2点同時に見られるのは極めて貴重だという。そんなこともよく知らなったのだが、ミケランジェロの作品にはやはり圧倒された。

ギリシャ・ローマ時代とルネサンスの彫刻は、体重を片方の脚にかけ、体を左右非対称にしたコントラポストという立ち方で、筋肉を強調して動きを出しているものがほとんどだ。それはそれで見事なのだが、ミケランジェロは筋肉をそれほど強調していない。「若き洗礼者ヨハネ」も「ダヴィデ=アポロ」も静かにスッと立っているような感じだ。それなのに、筋肉を強調して動きを出している他の作品よりも、はるかに存在感がある。まるで、それまでの作品すべてが、ミケランジェロの作品の素晴らしさをより強調するためだけに展示されているようだ。

それに、「若き洗礼者ヨハネ」は40%しかオリジナルが使われていない復元だという点で、また、「ダヴィデ=アポロ」は未完成だという点で、想像力を刺激する。完成品であれば、我々は作品そのものに向き合うことが出来る。だが、目の前にある作品は、復元だったり、まだ未完成だったりするので、我々は作品そのものに向き合うことが出来ない。どうしても完成品を想像してしまう。それは想像ではなく、創造かもしれない。ミケランジェロというルネサンスの巨人の威光もあって、目の前の作品以上の作品を幻視してしまった。

ミケランジェロ展の後、少し時間があったので、常設展を見た。これが驚きだった。国立西洋美術館の常設展は初めて見たのだが、こんなに充実しているとは思わなかった。ティントレット、ブリューゲル、ルーベンス、ド・ラ・トゥール、フラゴナール、ドラクロワ、コロー、クールベ、マネ、モネ、ルノワール、モロー、ロセッティ、ゴッホ、ゴーギャン、ドニ、ルオー、ピカソ・・・中世から現代までの西洋美術史を一覧できるほどの作品が揃っている。とても1、2時間では見切れない。毎日でも通いたいほどだった。

 

 

夏のホラー特集②「全生庵の幽霊画」

毎年夏になると、谷中の全生庵へ幽霊画を見に行く。

全生庵では、怪談の名手として有名な落語家・三遊亭円朝が集めた幽霊画を所蔵しており、夏に公開している。円朝は幕末から明治にかけて活躍し、足のないはずの幽霊がカラン、コロンと下駄の音を響かせてやってくる「怪談牡丹燈籠」で有名だ。

もう十数年前から通っていて、展示されている幽霊画もほぼ同じだが、見ないと落ち着かないし、見るたびに自分の中では発見がある。

今年も公開が終了するぎりぎりで間に合った。幽霊画は掛け軸で33幅がお堂に並んでいる。お客さんは5、6人しかいなかったので、ゆっくりと見ることができる。

お堂には大きなエアコンが設置してある。暑いのでかなり強力に運転されており、ゴーゴーと大きな音をたてている。それと、お客さんたちが歩くたびに、木の床がきしんでギュウギュウと音をたてる。皆、無言で見ているので、音はそれだけだ。

その音が、幽霊画に合わせて、いろいろに変化をするのが面白い。例えば、滝の中から幽霊が現れる画を見ていると、エアコンのゴーゴーという音が瀑布の轟音に聞こえてくる。柳が風に吹かれる画では、それが風の音となる。痩せさばらえた遊女が階段の途中で振り向く画では、お客さんが歩いて床がきしむ音が、遊女が階段を上っていく足音のように聞こえる。音のないはずの画から、確かに音がする。とても怖い。

だが一番怖いのは、音が消えてしまうことだ。鏑木清方が「お菊さん」を描いた画がある。お菊さんというと、番長皿屋敷の「1枚、2枚」と皿を数える幽霊であるが、ここに描かれたお菊さんは、虐待された女性の象徴的な存在であるという。着物姿の女性が茶をささげ持つ画だが、女性は俯いていて、顔が見えない。見えないのが怖い。顔を想像してしまう。それに、なぜかこの幽霊画は、全体が輝いて見える。見ているうちに、画からお菊さんが出て来るような気がしてくる。気づくと、エアコンの音も、お客さんの足音も、すべての音が消えてしまっていた。意識が音を離れてしまったのだ。あの世の静寂である。

全生庵の近くには、「イリアス」という雑貨屋がある。ここでは毎年、天野行雄さんというアーティストが、妖怪をテーマに作った様々なグッズを展示販売する「日本物怪観光のお化け物産展」が開かれる。今年の新作は、オバケロボだった。

夏のホラー特集①「金剛宗家の能面と能装束」

子供の頃から怖いものが好きで、映画もホラー映画がジャンルとしては最も好きである。夏はホラーの季節。ふだんは能楽など見ないのに、三越前の三井記念美術館で開かれている「金剛宗家の能面と能装束」に行ったのも、怖いものを見たかったからだ。

能には現在能という生きている人間しか出てこない物語もあるが、ほとんどは夢幻能である。夢幻能は超自然的な存在の物語で、あの世から出てきた亡霊や、この世のものではない神仏、鬼、妖怪らが登場する。

能面は、その「あの世」の存在を表現するために作られている。名人たちが作り上げた能面は、「あの世」の空気を濃密に纏っている。

昔は今よりも、死がはるかに身近だった。江戸時代までは川に死体が浮かんでいるのが当たり前だったというし、家族や友人が死ぬのを直接見ることもよくあっただろう。今は死は病院などに隔離され、見えにくくなっている。

宗教的な感覚も今とは違っていただろう。昔の人々は、死んだ人々をどのように身近に感じていたのか。その答えの一つが、この能面の数々だと思う。

会場には、金剛流に伝わる能面を中心に、名人たちが表現する「あの世の顔」が並んでいた。じっと見ていると、本当に目の前にあの世の存在が現れたような感覚になって、とても怖い。怖いだけでなく、あの世の幽玄さや神仏の品格までが、見事に表現されている。龍右衛門作の「雪の小面」「花の小面」、「増女」など、じっと見ていると、面がこちらを見返してくる。魅入られてしまいそうになる。

般若などの鬼の面も恐ろしい。ユーモラスな翁の面はほっとする。一つひとつの面に、心を揺さぶられる。能楽に全く興味がなくても、怪奇や恐怖を愛する人々は、ぜひ見るべきだろう。